白南地区についてHAKUNAN AREA

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白南地区の歴史

位置

白南地域は新潟市の南端、白根南部地域に位置し、新飯田、茨曽根、庄瀬の3地域で構成されます。

新飯田地域
南区の最南端で、信濃川とその支流中ノ口川の分岐点に位置し、果樹栽培がとても盛んな地域です。
商店街には毎月五と十のつく日に六斎市が開かれ、様々なお店が並びます。
歴史と伝統ある「新飯田まつり」は6月に開催され、大名行列や神楽舞・舞い込みは見どころたっぷり。県内外からもたくさんの観光客が訪れます。

茨曽根地域
南区南西部に位置し、桃、梨、ぶどう、りんご栽培が盛んで、明治時代フランスから導入の西洋梨「ル レクチエ」が名産です。春の桃源郷風景や観光果樹園に多くの観光客が訪れ、若手農家の高品質・高収入を目指した果樹栽培がマスコミで注目されています。厳冬期、豊作祈願と世代間交流事業「どんど焼き」行事が行われます。

庄瀬地域
豊かな自然に囲まれた閑静な地域です。住宅地の周辺には、のどかな田園風景が広がっており、稲作や果樹、園芸の栽培が盛んなところです。
1年を通して、地域手作りのイベントが多く開催され、地域みんなで明るく、楽しく活動しています。
お盆の頃には、「庄瀬農村公園まつり」が開催され、とても賑わいを見せています。

地形

出典:潟のデジタル博物館

1000年前くらいまでは、湿原や、河川に運ばれた砂や泥でできたデルタ地帯でした。

鎌倉時代ごろから庄瀬に人が住んだ形跡が見られはじめます。信濃川に自然にできた堤防に氾濫した土砂が溜まっていき、人が住み始め、その人々が土を運び、陸地を作っていきました。

白南地域の西を流れる中ノ口川は、大河ドラマで有名な直江兼続も改修工事に携わったと伝えられています。江戸初期には現在に近い流れとなり、水運・新田開発に大いに利用されたようです。図の赤丸が現在の白南中学校の位置になります。

出典:新潟日報

地名からわかること

潟があった場所には多くの生き物が暮らしていました。
たとえば、「兎新田(うさぎしんでん)」の「うさぎ」は「う(鵜)」と「さぎ(鷺)」のことで、鵜と鷺が多く住みついていた場所でした。
「道潟(どうがた)」の「ドウ」は、「朱鷺」の呼び名で、朱鷺が住む場所だったことがわかります。
南区全体に、潟に暮らした生き物の名前が地名として多く残っています。現在も、潟があった場所にはコハクチョウが多く降りたちます。

出典:新潟日報

幕末所領区分

1800年代中頃は、
新飯田:旗本小浜市知行
茨曽根:村上藩
庄瀬:新発田藩
という区分になっていました。
新飯田は中ノ口川と信濃川の分岐点にあり、舟運の要所として栄えました。

出典:潟のデジタル博物館

「潟」の時代

出典:潟のデジタル博物館

出典:『芦沼』

田植えはできても、稲刈りができない

江戸時代〜明治初期、信濃川や中ノ口川などの堤防決壊により3年に1度洪水が起き、白南地区を含む越後平野は甚大な被害を受けました。水が引くまでには数ヶ月もかかり、水難事故、飢饉(ききん)や感染症の蔓延により、多くの人が亡くなりました。
1922年に大河津分水路が完成するまでこの状況は続きます。200年をかけ請願され、22年の歳月をかけて完成した大河津分水路により、洪水被害が激減、排水性が向上し稲作がさかんになっていきました。

出典:信濃川河川事務所

ジョレンかき(底の泥をかき集め田に運ぶ)

どの家にも舟がありました

稲運び

出典:潟のデジタル博物館

心で感じる魅力

「景」

「田」

「食」

米、ル・レクチェ、桃

庄瀬「ままや」の料理、新飯田「大野精肉店」の揚げたてハムカツ

「祭」

「人」

有願和尚
江戸時代に新飯田の円通庵に住み、良寛和尚とも親交の深かった禅僧。絵画、詩歌、書に優れ、多くの作品を残しています。

小池左右吉
茨曽根村7代村長。果樹の熱心な研究者で、日本に初めてル レクチエを導入し、栽培に成功しました。

堀部安兵衛
赤穂浪士の中心となり活躍した新発田藩の藩士。数年間を庄瀬に暮らし文武に励んだと言われており、庄瀬農村公園には「手植えの松」も残されている。


白南地区の現代の課題